泣くほど悔しい経験をしたのは、最後いつだっただろうか。

みなさんこんばんは。
今日はいつもと少しテイストを変えて、ブログを執筆してみる。


私は今、渋谷のベンチャー企業で、24年間の中で1番早いスピードで過ぎていく日常を生きている。それが幸せなのか不幸なのか、そんなことを考える間もなく、忙しなく。


そんな中でも少し落ち着くこの週末に、ふとこうして筆を執る。そんな時、この一年を振り返る。


社会人になり2年目。後輩も入り、もはや新参者とは言えなくなったのが今の環境である。苦痛を感じながらも、どこか嬉しさを覚えながら走り続けた一年だった。一年目では見えなかった景色を、今、この時、確実に見ている。


大人になって驚いたことはというと、夢を掲げ生きてもいいということだ。小学生の時に行った社会見学や、高校の時に聞いた誰かもわからない偉そうな人間の講演会。社会に生かされているような大人達を見て、絶対今の方が楽しいよなと感じた童心は、「今を楽しまないといけないんだ」という焦りを同時に与えた。

しかし、夢を掲げ、夢を諦めずに走り回ることは、形が変われど大人になってもできることなんだと気付かされた。それが、今見ている私の景色である。「今を精一杯楽しむ」は年を重ねても、諦めなければ、誰でもできることだった。


とはいえ、社会に出ると、エゴは捨てなければならない。誰かの仕事が今の社会を作っているとはよく言ったもので、「自分が作りたいもの」よりも「誰かが必要としているもの」を作るのが、社会の門を潜ったものに与えられる義務だからだ。


私は昔から「自分がこの世に生まれた意味を知り、価値を残したい」とずっと考えてきた。周りがいての自分だから、この世界にも順応できたのかもしれない。しかし、中にはギャップを感じる人もいるだろう。「誰のために生きてるんだっけ?」という疑問が解決せぬまま過ぎる時間に、鬱陶しさすら感じるかもしれない。


世界の仕組みも全容も知らず、己にどんな価値があるかも知らずに過ごしていたあの頃は常に全力だった。できることなんて少ないから、何においても限界まで頑張り、死んだように寝た。


大人になると、この世界の構造が少しずつわかり、自分自身も何ができて何ができないか分かり始めてくる。「大体これくらいやっておけば文句は言われないだろう」を知るようになる。

「泣くほど悔しい経験をしたのは、最後いつだっただろうか。」

物事の停滞を感じ始めた時、私の脳裏にはそんな言葉がよぎる。常に全力だった幼き頃の自分なら、今どうしていただろうか。こんな所で立ち止まって満足していたのだろうか。


皆、自分の力を甘くみすぎている。仕事だろうが遊びだろうが常に手を抜くことを考えている。「今を精一杯楽しむ」なんて大人でもできるに決まっている。子供でもできるんだから。


少年時代の自分がふと目の前に現れて呟く。

「大人になんてなりたくないとは、絶対思わせないでくれよ」と。

少しの悔しさと嬉しさを感じて、また頑張ろうと立ち直る日々である。


今年ももう終わる。今年も早かった。
来年はもっと早く感じるのだろう。

いつになろうとも、人生で最高の1日は、今日、今この時、自分で作ることができるはずだ。

そう信じて。

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